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カテゴリー「甲府城・歴史」の115件の記事

甲府城にまつわる色々なこと 歴史はおもしろい・・・ 

2019年12月 2日 (月)

甲府城17mの石垣脇 歩道整備

 甲府城を、お城が好きで見学に訪れる人々、日本100名城巡りでスタンプを集めに訪れる人々等が結構見逃してしまうのが、甲府城稲荷曲輪の東側にある高い石垣だ。東日本有数の17mの高さを誇る野面積み石垣は実に見応えがある。県教委の資料を見ると420年前の石垣が75%の確率で残っているという記述がある。甲府城を訪れる人々には是非見てもらいたい場所である。

 この石垣を眺めるのに、便利な歩道が整備された。県や市で、甲府城周辺の地域活性化のために、甲府駅の北口から甲府城跡までの回遊ルートを想定して地域全体を見据えた検討を行っているというが、そのお城周辺地域整備の一環であろうか。大変うれしいことである。

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2019年11月25日 (月)

こんなところに甲府城お堀跡(その24) 藤川河道が二の堀に!

 甲府市で出している「甲府歴史ものがたり」に、甲府城二の堀について興味ある面白い記事が載っていた。

 藤川が甲府城(一条小山)の東側を北から真っ直ぐ南に流れていたということは、以前何かの資料文献を読んで知っていたが、その藤川の河道が二の堀になったということはこの記事を読んで初めて知った。考えてみれば、お城東側から真っ直ぐ南に行けばちょうど二の堀に重なるのだ。なるほどと思う。

 そして私は想像し考える。<河道(跡)を深く拡げ堀った土を、西側脇に積み上げて土塁とした。そこにいつの時代か桜が植えられ、そして桜が見事に咲くようになった。武士が西側から、町人等が堀を隔てて東側からそぞろ歩いてお花見を楽しんだ。更に時代が進み、堀は埋められ、土塁跡が今の桜町通りになった。>

 二の堀跡が桜町通りの4~5m東側に一部せぎ側溝となって残っているいることは、既にこの「こんなところに甲府城お堀跡」で記述した。

  → こんなところに甲府城お堀跡(その9) 中央二丁目地内岡島第二駐車場脇 二の堀跡

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「こうふ開府500年誌『甲府歴史ものがたり』」
 編集;こうふ開府500年記念誌編集委員会 発行;平成31年4月1日
P236 計画的につくられた道と町割
・・・藤川は、一条小山の北東で直角に東に流路を変えていますが、甲府城下町建設以前は真っ直ぐ南に流れており、その河道は甲府城の二の堀の一部に利用されたことがわかっています。・・・

 

2019年10月28日 (月)

佐伯泰英「居眠り磐音」を読む(その4) 大月宿から小菅村を廻り江戸へ 

 佐伯泰英の「居眠り磐音 江戸双紙」を読み進めている。今、39巻「秋思ノ人」だ。老中田沼意次の企みで、要職の御側御用取次から甲府勤番追手組支配に左遷された坂崎磐音の剣友(師匠上役?)の速水左近が甲府勤番3年間の勤めを終え、江戸に戻る場面だ。
 甲府を発ち、柳町、酒折宮、鎮目、石和宿、栗原を通り、笹子峠を越える。峠の途中では矢立の杉を眺め、大月宿に至る。これらの地名は今現在もあり、親しみを持って読み進められるのだ。

 速水左近一行は、このまま甲州道中を小仏峠を越えて江戸へ向かうと思いきや、それがなんと甲州道中を大月宿で外れ、岩殿山の東側から裏街道を葛野川沿いに小菅村へ向かう。小菅村から青梅往還を江戸に向かうのだ。
 小説では、大月から小管に向かうのに松姫峠を越えるように書いてあるが、その頃はまだ松姫峠(という名の峠)はなかったはずだから、多分西原峠か佐野峠、十文字峠を越えて小管村に至ったのだろうと想像出来る。
 速水左近を追って、坂崎磐音一行もこれらの峠を越えて小菅村に至っている。 

 私は、昭和時代50年頃3年間仕事の関係で、この小菅村に住んでいた。下流で多摩川と名を変える小管川沿いの山あいの集落だが、お大尽の多い心豊かな人々が暮らすとてもいいところだった。そのころこの小菅在住の上司に、「私が若い頃は、大月で会合とか会議があるときには、朝早く小菅を発って、この十文字峠佐野峠西原峠を歩いて越えて大月へ向かったものだ」といい聞かされていた。懐かしい四十数年前の話。

 そんなこともあって私は、大月から小管に越える峠を一時何度も歩いたことがある。速水左近がこの峠を歩いたのだと思うと感慨深い。

・・・読書はいい。大げさにいうと生きている喜びを感じるときだ。

 → ブログ<山梨の山歩き峠歩き古道歩き>「佐野峠・西原峠をめぐって」

 「居眠り磐音 江戸双紙39 秋思ノ人」佐伯泰英著 双葉文庫 2012年6月 第1刷発行

2019年9月30日 (月)

「こんなところに甲府城お堀跡(その23)」 三の堀跡 山神社付近

 「こんなところに甲府城お堀跡(その22)」をアップしてしばらくして、地元の新聞「山梨新報」に大変興味ある記事(*)が載った。私の書いた内容(< >内)を、まったくフォローしてくれるような記事だった。甲府城二の堀と三の堀に囲まれた場所に、職人が大勢住んでいたことがわかる。

(*) 「小江戸甲府 城下町の昔を訪ねる 6」山梨新報社発行「山梨新報」令和元年9月27日付

<・・・江戸時代に甲州街道宿場本陣があった柳町から今の遊亀通りを南進、レトロな旧商工会議所(*-1)の角を左折すると鍛治町通り(*-2)に入り、更に進むと桶屋町通り(*-3)となる 新月院前の信号を過ぎると開運橋を渡る。Imgp68291 この開運橋の下を南から北に流れているのが三の堀跡(濁川)だ。・・・橋の手前左側には山神社(*-4)があり、その横の三の堀跡の上に建物が建っている。・・・ >

(*-1)この「レトロな旧商工会議所」の建物は、現在は「甲府法人会館」で、大正15年に「甲府商工会議所」ビルとして立てられた山梨県最古の近代ビルだ。
(*-2)鍛冶職人が道路の両側に多く住んでいた町である。鍛冶職人は、主に桑や鎌といった農具を作っていた。
(*-3)桶屋町には桶や樽を作る職人が集まっていた。たらいや醤油、酒の醸造樽、棺桶まで作っていた。
(*ー4)山の神である大山衹命を祀っている。桶職人は材木を扱うため山の神への信仰が篤かったのだろう。桶屋町から出る木屑は製糸工場や銭湯の燃料としてリサイクルされた。

写真)山神社際三の堀跡の上にある建物の北方向を撮る。この先で右(東)にクランクしているのがわかる。

 

2019年9月22日 (日)

こんなところに甲府城お堀跡(その22) 北へ進む三の堀跡 山神社付近

< 日本100名城に数えられる「甲府城(舞鶴城)」には、お堀が鍛冶曲輪の南、遊亀橋両側に残存する。これが内堀の一部で甲府城で残っている唯一のお堀らしいお堀である。P1040573 甲府城には内堀(一の堀)、二の堀、三の堀があったが、そのほとんどが埋め立てられ当時の様子を知ることは出来ない。それでも、甲府市内の普段よく行っている場所、よく通っている道路の脇など思いがけないところに、川になったり、ちょっとした溝、側溝になったり、また暗渠になったりで、甲府城のお堀跡が市内各地に残っている。>

 江戸時代に甲州街道宿場本陣があった柳町から今の遊亀通りを南進、レトロな旧商工会議所の角を左折すると鍛治町通りに入り、更に進むと桶屋町通りとなる。Imgp68261 新月院前の信号を過ぎると開運橋を渡る。この開運橋の下を南から北に流れているのが三の堀跡(濁川)だ。

Imgp68281市内の側溝や川はみんな、北から南に流れているのに、ここは南から北に流れている。人工の工作物であることがわかる。

 橋の手前左側には山神社があり、その横の三の堀跡の上に建物が建っている。Imgp68241 地区の集会場のような感じである。公共の建物故、河川の上に建てることが許されているのだろうか。その建物の下を北に三の堀跡は流れている。その先3回ほどクランクして、以前記述した「深町河岸跡」辺りに至る。

 写真左上)甲府城内堀 遊亀橋南端から西方向を撮る
 写真右上)桶屋町通り開運橋から南方向を撮る
 写真右下)三の堀跡に架かる開運橋と堀の上にある建物
 写真左下)山神社際堀跡の上の建物の北方向を撮る

2019年9月10日 (火)

こんなところに甲府城お堀跡(その21) 二の堀跡から三の堀跡(濁川)へ

 甲府市街桜町南交差点の南東、中銀柳町支店と小宮山印店の間に、 甲府の繁華街桜通り東側を下ってきた二の堀跡がここで顔を出す。Imgp68441ここからは三の堀跡となる。巾3~4m、深さも4~5mあり、両側と底が石垣、コンクリートで固められている。繁華街に一部残っている二の堀跡とは違い、川といっていいようなものだ。濁川がここから始まるといってもいいのだろうか。堀跡らしくなっている。この先川幅はだんだん広がっていく。

Imgp68142  中銀柳町支店と小宮山印店の間を出発点に100mばかり南進した三の堀跡は、老舗「鰻 松月」の所で 、東側にクランクし50m程進み遊亀通り緑橋をくぐって行く。確かここ緑橋の所には、以前歩道橋があり、道案内の目印になったものだ。緑橋を潜った三の堀跡は、更に東に進む。

写真右上)中銀柳町支店東側の三の堀跡。金網の間から南方向を撮っている。
写真左下)クランクした三の堀跡。東方向を撮っている。遊亀通り緑橋が見える。

2019年8月10日 (土)

定年後の暮らしは読書三昧 佐伯泰英「居眠り磐音」を読む

 佐伯泰英の「居眠り磐音」を読んでいる。今、江戸双紙17巻「紅椿ノ谷」だ。この先 30巻 ぐらいまであるようで、まだまだ楽しめるということでうれしい限りだ。

 この小説は、映画化されたりテレビドラマ化されたりで観ている。映画は観たがまったく物足りず、ブログに書く気にもならなかった。
 テレビの方は先日までBSプレミアムで再放送がされていた。ドラマの最後で、磐音とおこんが江戸に向かって草原の中の一本道を二人で手に手を取り歩き遠ざかって行くシーンが印象的だった。ハッピーエンドだ。

 多分、小説通りテレビドラマ化されたのだと思い、お話のラストはわかるわけだが、小説本は実に面白い。テレビにはなかった話もいっぱいあり、甲州市川陣屋とか鰍沢、十谷大柳川が出て来たり、必然的に江戸のこの時代の様子、歴史に関わる話も出て来たりで、これから読み進んでいくのが大いに楽しみである。

 一冊を読み終わり、次を読み進めることの楽しさといったらない。何か読んでいるとき、不思議と心が落ち着くのだ。

・・・読書はいい。大げさにいうと生きている喜びを感じるときだ。

 

 「居眠り磐音 江戸双紙17 紅椿ノ谷」 佐伯泰英 著 双葉文庫 2010年11月11日第31刷発行

2019年6月 1日 (土)

甲府城二の堀跡に新青沼橋架かる こんなところに甲府城お堀跡(その20)

<日本百名城に数えられる「甲府城(舞鶴城)」には、お堀が鍛冶曲輪の南、遊亀橋両側に残存する。これが内堀の一部で甲府城で残っている唯一のお堀らしいお堀である。 甲府城には一の堀(内堀)、二の堀、三の堀があったが、そのほとんどが埋め立てられ当時の様子を知ることは出来ない。それでも、普段よく行っている場所、よく通っている道路の脇など思いがけないところに、川になったり、ちょっとした溝、側溝になったり、また暗渠になったりで、甲府城のお堀跡が市内各地に残っている。>

 以前、甲府城二の堀跡で紹介した堀(*)に新しい橋が架かっている。甲府駅脇の信玄公像前の道路を300mばかり西方向に進むと突き当たりに広い駐車場がある。Imgp56240 今その駐車場を斜め左に突っ切り、横沢通り方面に向けて新しい道路がつくられている。この道路が出来上がると、横沢通りから甲府駅に行くのにずいぶん便利になるだろう。(もっとも横沢通りのJR中央線ガードは長い間、工事で交通止めになっていて開通が何時になることやら。)

Imgp56250  その新しい道路が二の堀跡を越える橋が「新青沼橋」だ。もう真新しい銘板が取り付けられている。この工事で、この辺りの二の堀跡は、前に紹介したときとは(*)ずいぶん変わってしまっている。

 これまでの時代の流れの中で、残っていた甲府城のお堀跡も姿を変えて来たのだろうし、これからもさらに変わっていくだろう。仕方がないという気持ちもあるが、何か寂しい気持ちがする。せめて甲府城お堀跡とかの説明板でも設置されるとうれしいのだが。

 

写真右上;西側横沢通り側から撮っている。手前から伸びている道路が写真中央で二の堀跡を渡る。そこに新青沼橋。左に見える茶色の大きな建物は最近出来た大原学園の建物。公務員志望の大勢の学生さんが勉強している。

写真左下;二の堀跡がここでクランクし北に向かう。側壁も以前とは違い新しくなっている。JR中央線の線路を潜って北へ続いている。 

(*) 「こんなところに甲府城お堀跡」(その7) 共立病院北側 二の堀跡

2019年5月30日 (木)

こんなところに甲府城お堀跡(その19)深町河岸跡付近からさらに北へ 三の堀跡

 前回紹介した深町河岸跡付近で濁川を東方向に分けた甲府城三の堀跡(*)は、北へ向かう。三日町通りの秋葉神社東の信号をさらに東に進む一方通行の狭い道を斜めに突っ切った三の堀は、さらにさらに北に進み教安寺の西の外れを通り城東通り(国道411号)を横切る。この辺りの三の堀の東側にはこの教安寺、そして尊躰寺がある。この二つのお寺も甲府城に深く関わっているが、詳細は別の機会に。

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<秋葉神社東の信号から50~60m東に進んだところ、一方通行の狭い道から南方向を撮っている。>

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<黒い扉の向こうが三の堀。城東通りへ出るところ。城東通りから南方向を撮っている。>

 三の堀跡は、今は国道411号線(以前は甲州街道、国道20号線)になった城東通りを暗渠で潜り、中銀東支店の駐車場辺りを北に向かい甲斐奈通りに出る。


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<中銀東支店の建物と駐車場の間を結構広い暗渠で三の堀が北に向かっている。>

 ここから先は、写真正面の扉からまっすぐ北へ工場などの西端を進み甲斐奈通りを横切ることになる。さらにその先はおそらく甲斐奈神社の東端を北上し、甲斐奈神社の北側を西に向かうのだろうがその辺りは、もうよくわからない。

 藤川の手前で西側に向かう三の堀は旧富士川小学校の南側をさらに西へ進み、甲府城下町近習町口辺りで一の堀(内堀)へ続く。

 (*)こんなところに甲府城お堀跡(その18)深町河岸跡付近から北へ進む三の堀跡

  <参考文献>「平成甲府城下町絵図」山梨県埋蔵文化財センター

2019年4月29日 (月)

こんなところに甲府城お堀跡(その18) 深町河岸跡付近から北へ向かう三の堀跡

<日本百名城に数えられる「甲府城(舞鶴城)」には、お堀が鍛冶曲輪の南、遊亀橋両側に残存する。これが内堀の一部で甲府城で残っている唯一のお堀らしいお堀である。甲府城には一の堀(内堀)、二の堀、三の堀があったが、そのほとんどが埋め立てられ当時の様子を知ることは出来ない。それでも、普段よく行っている場所、よく通っている道路の脇など思いがけないところに、川になったり、ちょっとした溝、側溝になったり、また暗渠になったりで、甲府城のお堀跡が市内各地に残っている。>

 山梨学院大学の広いキャンパス南側に新しい広い道路が東西に走っている。和戸通り東部市民センター交差点から、西に延びる城東バイパス(都市計画道路和戸町竜王線)だ。この道路が身延線を高架で越え朝気一北の交差点を過ぎ100mばかり進むと、濁川沿いの狭い一方通行の道路になってしまう。この道路が更に西進し連雀通りとなり市街中心部に向かうのである。知る人ぞ知る渋滞道路を避ける抜け道だ。今、この辺り、城東バイパスを中央四丁目交差点、平和通り相生交差点につなげる工事の真っ最中である。この辺りの濁川、三の堀の景観もまた大きく変わっていくだろう。(現にもう濁川沿いにあった笠森稲荷大神社は、近くに移転してしまった。)

 さて、城東バイパスが濁川沿いの狭い一方通行の道路になって、300mばかり西に進むと左にクランクした濁川に架かった橋を渡る。この辺りが濁川深町河岸跡である。ここの橋を渡ったところ右側を北に向かう狭い道路がある。その脇に甲府城三の堀跡がある。もうお堀というより側溝といった方が当たっている。若松町辺りから何度かクランクし北に進んできた三の堀がここにつながるのである。この堀跡は、このまま北に進み教安寺の西の外れを通り城東通りを暗渠で潜り、中銀東支店の駐車場辺りを北に向かうのである。

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<濁川から分かれ、北へ向かう三の堀跡。遠くに見えるのは愛宕山だ。橋のたもとで北方向を撮っている。>

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<小橋南からやはり北方向を撮っている。三の堀が橋の下を通って右側へ進み、濁川になる。三の堀は、橋左側をまっすぐ向こうへ行く道路の脇の側溝となっている。>

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<深町河岸跡付近で三の堀から分かれ、東に向かう濁川。都市計画道路和戸町竜王線の工事が始まっている。河を渡る古い小さな橋が沢山連なっていて生活感一杯だったが、この辺りももうすぐ一変する。>

 <参考文献> 「平成甲府城下町絵図」 山梨県埋蔵文化財センター

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